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太宰治『如是我聞』のチャット戦後思想討論会報告(yomori)

参加者は JUN,yomori,sonia,jane,maitake,dancer
ryo,でした。
太宰治「如是我聞」をテキストに、話を進めました。

「作家ならば、このような文章ではなく、小説で表現すべきではないか」(sonia)
「戦争を経過しても微動だにしない志賀直哉の作風に対し、
 それは文学者として誠実なことなのかと、指弾している」(よもり)
「戦後だからこそ出てきた作品。丸山は太宰を嫌っていたが、既成論壇に反発した丸山は、現在から見ると太宰と重なって見える」(JUN)
また、janeさんやmaitakeさんからは、女性蔑視的な表現について指摘がありました。
文学作品をテキストにして、「戦後思想」を別の角度から考えてみよう、という試みでしたが、初司会のよもりにとっては荷が重すぎたようです。
それとも、テキストの選択を誤ったかな(笑)
今後は、坂口安吾や荒正人などの文章も取り上げてみたいと思います。

後半は、参議院選挙の結果について、ちょっと討論の時間を持ちました。
口火を切ったのはJUNさんでした。実はJUNさんの新たな勤務先となった北海道の十勝地方は、かの鈴木宗男の地元です。
今回、十勝地方の多くの自治体で、鈴木宗男はトップの得票を獲得しました。
これについて、JUNさんは、「札幌にいると分からなかったが、こちらに来て、鈴木のような政治家が評価を得る理由が、実感として理解できた。町には若者の姿がないし、仕事もない。役場に行っても職員が減ってがらんとしている。『こんな町の状態じゃ鈴木宗男に入れるしかないでしょう』と、ある役場の幹部が言っていたが、その心情は理解できる」と発言。
これに対し、soniaさんが、「被告人となっている利権政治家に投票するという選択は否定せざるを得ないし、そもそもそのような心情は、JUNさんがいままで否定してきたものではないか」と指摘しました。
ここから、「肯定をしている訳ではない。そういう現実があるということ」(JUN)
「だからと言って鈴木を支持するというのは、JUNさんがよく言っていた民度の低さ、の現われではないか」(sonia)
といった応酬がありました。

JUNさんが十勝に赴任して受けた「カルチャーショック」について、疑義を呈するsoniaさんに対し、janeさんやdancerさんからは共感が寄せられ、また、ryoさんからは、鈴木を利権政治家としての面ではなく、「官僚支配に挑み敗れた政治家」と捉える視点が提示されました。
丸山的な思考からの離脱とも見えるJUNさんの発言ですが、どうなんでしょう。
確かに、一見「転向」ともみえるJUNさんの発言です。
しかし、「鈴木宗男に投票せざるを得ない地方の現状」を、「(肯定はしないが)現実として見据えるべき」とするJUNさんの発言に、地方切捨てを招来している「市場原理」への疑問を読み取るならば、JUNさんは一貫している、というふうにyomoriは思いました。

JUNさんやyomoriには、社民的な福祉政策と是とする姿勢があります。富の再配分について、国家がどこまで介入すべきなのか。JUNさん・yomoriと、soniaさん・ryoさんでは、この問題に対する考え方に、相当の開きがあるように思えました。その違いが、鈴木宗男をめぐる議論で露出した、ということではないでしょうか。

この議論につきましては、時間的な制約もあって、やや消化不良に終わった感があります。ぜひとも続きをしてみたいですね。

以上、第21回チャット討論報告でした。
2004年7月18日yomori55氏投稿より

  # by ponkenblog | 2004-10-18 04:48 | arts

「戦後思想」チャット報告2(yomori55)

こんにちは。よもりです。
8月20日(金)開催のチャット討論についてご報告いたします。

参加者はじゅんさん、そにあさん、りょうさん、せいぼさん、もりもりさん(お久し振り!)いんくさん、きかさん、ダンサーさん、ふとだまさん、よもりでした。

今回のテーマは「公共性について」でしたが、冒頭りょうさんより、加藤典洋の「私利私欲の上に公共性を築く」という論旨に対するコメントがありました。
りょうさんによれば、私利私欲の上に公共性を築くというのは、フランス革命のテーマであって、加藤は当たり前のことを言っているに過ぎない。公共性というのは、私利私欲を
達成するために求められるのである、ということでした。そして、そのためにも私利私欲を主張する各個人には「自己責任」が求められる、という考えです。
これに対し、そにあさんから「リバータリア(libertarian)の真骨頂ですね」と半畳(?)が入り、このやりとりが通奏低音となる形で議論が進みました。

りょうさんからは引き続き、神戸震災ボランティアに対する加藤典洋の一種冷ややかな視点(文章はブリーフケースにUPしています)について、「理解できない」との意見が提示されました。
これに対し、じゅんさん、よもりは、ボランティアの善意が国家意思に回収されることへの危惧という観点で加藤の文意を読み取るべき、と述べ、そにあさんからは「組織化されないボランティア」を否定する考えが示されました。
このあたりから、議論はりょうVSそにあのバトルの様相を呈し、書き込みをも巻き込んで、深い深い混迷へと沈んでいったのでした。

このバトルを再現することは、私の能力をはるかに超えていますが、面白いなあと感じたことがありますので、それを報告してみます。
議論の中で、そにあさんはりょうさんの論理の「形式」を衝いたように思えました。つまり「なにを語っているか」ではなく「どのように語っているか」、「論理がどのような構成をとっているのか」、を問題にしていたように思います。
対してりょうさんは、あくまで「語られたことの実質」が大事であるという姿勢を崩しません。
最後には業を煮やした(?)そにあさんから、「自衛隊のイラク派兵だってボランティアです」という発言が飛び出しました。これは、りょうさんの論理に傷口を開けようとした、そにあさんの「自爆テロ」とも見なされましたが、結果としては、残念ながら単なる自爆に終わり、夏の夜の底へと沈没していった感がありました(そにあさん、ごめん。反論してね)。

参加者のみなさんはどんな感想をお持ちでしょうか。
ぜひぜひ、投稿ください。
2004年8月23日yomori55氏の投稿より

  # by ponkenblog | 2004-09-04 21:24 | society & culture

「戦後思想」チャット報告(yomori55)

こんにちは、よもりです。
お盆休み返上で働いているJUNさんに代わり、8月13日開催のチャット報告をいたします。
参加者はJUNさん、そにあさん、せいぼさん、いんくさん、ふとだまさん、よもりでした。

今回のテーマは、JUNさんがアップしてくれました高遠さんの手記をめぐっての感想でした。
「まずは元気になってよかった」(よもり)
「伝えられていなかったことが多く書かれていて、2チャンネルなどのパッシングのひどさが分かった」(いんく)
といった感想から始まりましたが、ボランティア活動のあり方をめぐって、
「国家と個人の中間に位置するものとして、しっかりとした組織を形成しなければ、これからのボランティアは立ち行かない。高遠さんは、自分の活動の公共性を主張すべきだったし、そのためにもしっかりとしたNPOなりをたちあげて、その中で活動すべきではないか」(そにあさん)という提示があり、ここから議論が拡がりました。
「かりに犯罪人であっても、個人を保護するのは国家の義務であるはず」(いんくさん)
「一人での活動は危険が伴うし、国家は個人の面倒をみてはくれないということを自覚すべき。」(せいぼさん)
「組織化することによって、運動が硬直化する恐れがあるのではないか」(ふとだまさん)
「個人的な動機に基づいて活動していることが、いわば高遠さんの持ち味で、組織の中に入ったのでは、高遠さんのモチーフの核にある“愛”が活かされないのではないか」(JUNさん)
「それはある意味“文学的”な動機で、イラクのような戦闘地帯に行く場合、やはり善意や純粋さだけではなく、社会性・公共性が必要ではないか」(よもり)
などなど、議論が出されました。

また、「自己責任論」をめぐって、
「自己責任という言葉は、市民社会の主体としての個人の確立を志向しているように見えるが、その実、関係の網の目の中で生きている私たちの、その網の目をブチブチ切っていくような議論ではないか。かつて話題になった援助交際少女の《人に迷惑をかけてないのだから、何をしてもいいでしょう》という言葉の、ちょうど裏返しになっているのではないか」(よもり)という発言から、
「公共性をどう位置づけてゆくか、そこの議論をしてみたい。やはり国家と個人が公共性をめぐってダイレクトに対峙するのではなく、中間的なNPOなり地方自治体なりが公共性を担ってゆく、そういう社会にならなければ、非常に危険ではないか。」(そにあさん)という発言があり、後半は今話題の「自治体合併」をめぐって、若干の議論になりました。

それで、次回のチャットなのですが、表題にもありますように8月20日(金)、夜10時より、「公共性」をめぐって
じっくり議論をしてみたいと思います。切り口としては、今回少し話題となった「自治体合併」について、よもり、JUNさんから「現地レポート」を行います。日本国家から「さっさと合併しちゃいなさい」と宣告された過疎地に住んでいる二人が、現地住民の生々しい声なども、都市住民の皆様にお伝えしながら(笑)、議論を進めてみたいと思います。ぜひぜひご参加ください。

なお、この報告中、出席メンバーの発言はよもりの怪しげな記憶に依拠しております。趣旨が違うと思われた方は、投稿をお願いいたします。
ではでは、20日にお会いしましょう。
2004年8月14日 yomori55投稿より

  # by ponkenblog | 2004-09-04 21:18

「戦後思想を考える部屋」とのコラボについて(dancer01jp)

戦後思想を考える部屋のご理解をいただけたため、じゅんちゃん(junjfk01)、よもりさんら(yomori55)の書かれた文章をも、このブログに載せることと致します。
 このようないきさつになった理由を、先に投稿したdancer01jpの戦後思想への投稿より抜粋して、説明に変えたいと思います。

 このようにポン研と「戦後思想」の会のメンバーがクロスして
いる関係もあり、また、経緯を遡っても支援及び協力の友好関係
にあったことがわかります。
 今現在、私の記事「ブログの有効性と展開」でも、触れている
ようにポン研は、りょうさんの聖書講読以外は休止状態にあり、
ブログで開放する活動の記事が取れにくい状態にあると思いま
す。そこで、ポン研のアーカイブにもあるような「戦後思想」と
の友好関係を利用し、又、私dancer01jpも、「戦後思想」のメン
バーで参加させて頂いていることもあるので、ポン研ブログの方
に「戦後思想」での活動記録をコラボレーションという形で、載
せられないだろうかいうことを考えました。サイトのタイトルが
「ポストモダン研究会」ですので、これも実験的な試みとして捉
えることも出来ますし、また、「戦後思想」の方では、今まで内
容の濃い議論を経てきたことを、吟味して公開できる場になった
らいいと願っています。
 しかし、「戦後思想」の会は、もともと、じゅんちゃん
(junjfk01)が始め、よもりさん(yomori55)が今は運営に携わ
っており、その2人に問い合わせたところ、この「戦後思想」の
メーリングリストに、私の意図することを説明して投稿して欲し
いとのことでしたので、このようなご説明とご理解を御願いする
次第となりました。
 ブログへの具体的な掲載については、未定ですが、案として
は、「戦後思想」のメーリングリストのアーカイブの中で、本人
のオリジナルの文章で本人の了解がとれ、公開する価値のあるも
の。もしくは、今後、私dancer01jpが出席した回の情報として、
どんなことを扱ったかを具体的に述べるのでも良いかと思ってお
ります。

2004年7月28日dancer01jp 戦後思想への投稿より抜粋

  # by ponkenblog | 2004-09-04 20:40 | introduction

第1回コラボレーション ご報告 (sonia氏文責)

第1回ぽんけん&戦後思想の部屋(コラボレーション)のご報告を、ジュンさんの依頼を受けソニアがいたします。

11月1日(土)、午後10時~午前1時まで、活発な討論がなされました。皆様、お疲れ様でした。

およそ、三部構成でお話が展開したと思います。①提出された資料批判 ②公共性と共同性論 ③総選挙と小泉政権 の順です。

まず、ソニアの提出した、たたき台としての資料(朝日新聞の記事)について、暴発さん、そんふしさんからご批判をいただきました。

 ○論旨が明確でなく難解である(暴発)

 ○戦前の価値を全否定するような戦後民主派知識人の衒学的態度には到底承服しかねる(そんふし)

そうしたご批判を受けて、各パラグラフごとの資料読解へと進みました。

 ○「疑いの精神を疑う」状況が、現代版「近代の超克」論とも言うべきポストモダン思想にも見て取れるのではないか(よもり)

 ○政治的「原理主義」とでも言うべきもの(自由主義やカント思想への回帰)が台頭しているのではないか(ソニア)

 ○ルペン派ナンバー2の詳細なご説明と、「いま押し出してくる気配のある」政治状況(右転回)への懸念の表明(ジュン)

 ○先進国での近代の抑圧/近代の超克と、途上国での伝統の抑圧/近代の完遂という、グローバルな温度差の存在の指摘(ジュン)

次に、資料の言及している、近代国民国家により担保された「主権」と「人権」のお話から、共同性と公共性へと論が進みました。

 ○古い公共性の回復を主張する小林・西尾・佐伯のグループは、「祖国のために死ぬ覚悟」を強調する(ソニア)

 ○いや「祖国のために殺す覚悟」とした方が、ごく僅かな可能性として、公共性のナローパスへの展望が開けるのではないか(よもり)

 ○丸山真男の言う市民社会という公共性構築を忘却し、一挙に国益へ飛びつく小林・西尾のグループのあり方への懸念(ジュン)

このジュンさんのご指摘から、日本の中間的共同体(部分社会)の問題へ話が及びました。

 ○丸山の活躍した時代から共同体の崩壊という現実が始まり、市民による公共性の構築が危急の課題となった(ジュン)

 ○日本の中間的共同体は、共同体の繁栄=個人の自己実現という幻想が機能しているうちは有効であった(ソニア)

 ○いや、共同性と公共性は不可分であり、共同性を基盤にして公共性が構築されるのではないか(よもり)

最後に、総選挙も近いこともあり、日本の政治状況に関するお話(苦言)で締めくくられました。

 ○政権交代の一点突破に絞り、政治哲学の論議を置き去りにした新民主党のあり方は「野合」そのものではないか(ソニア)

 ○本来は、社会民主的な勢力が丸山の理想とした哲学を担うべきだが、政治的「逆風」の中で思うにまかせない状況(ジュン)

えーと、またまた、いつもの三人のお話だけに「閉塞」してしまいました(笑)。この状況をよもりさんは、次のように表現されました。

 ○公共性と共同性の議論、つまり社会をいかに解釈しそれと関わるべきかという問題は、貧困というリアリティーの喪失によって、

  社会をどう味わい、どう楽しむかというミーイズム(市場原理)に席を譲り、1979年を境に転回したのではないか。

確かに、コアなお話で他の方々がなかなか参加しづらい面もあったかなと思います。次回は、もう少し議論の輪を広げたいと思います。

また、ジュンさん、よもりさんが、オープン部屋で緊張したというご感想にびっくりするとともに、温泉気分という表現に苦笑しました。

以上、ご報告でした。
2003年11月5日(水) 午後2時38分投稿 sonia rykeil_2001投稿より

  # by ponkenblog | 2004-08-21 22:36 | society & culture

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