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民主と愛国 序章 戦後思想チャット討論報告(yomori55)

今年は次から次へと大災害が相次いでいます。メンバーの皆さんの地域はいかがだったでしょうか。
私の住む地域では、台風18号の強風で収穫前の果樹が9割方落果してしまいました。被害は農業だけにとどまりません。子育て世帯の貴重な収入源であった農家のパート仕事がなくなり、問屋さんは扱うものがない、青果店は売るものがない、運送業は運ぶものがない、ということで、地域全体に深刻な影響が出ています。今全国各地の被災地で、直接被害だけではなく、様々な2次被害が出ているのではないでしょうか。

さて、10月22日開催のチャット討論の報告です。参加者はJUNさん、そにあさん、せいぼさん、もりもりさん、まいたけさん、わくわくさん、おしえてさん、いんくさん、よろしくさん、よもりでした(間違ってたらごめんなさい)。
テキストは小熊英二「<民主>と<愛国>」序章で、まず、1955年を境にして「第一の戦後」と「第二の戦後」を区分する小熊の方法に対しては、
・日本が成長期に入り、政治的にも55年体制が確立した時期であって、この区分は当を得ている(JUNさん)
・55年を境界にして言語体系が変わったと書かれているが、検証が必要(よもり)
・JUNさんが以前提起した「79年転換説」の方に説得力を覚える(そにあさん)
 などという意見が交わされました。

これに関連して、「市民」という言葉について、様々な角度から議論を行いました。
古代ギリシャにおけるポリスと市民について、「労働者」と「市民」について、「市民」ということばが「市民権」を得たのはいつころか、などなど。更には「領有」や「心情」など、序章に現れる言葉について、議論を交わしました。今後テキストを読み進めてゆく上で、格好の準備運動になったのではないか、と考えています。

 ところで、チャットの中で、「公」と市民の関係や(何故か)選挙制度をめぐって、JUNさんとわくわくさんの間で「論争」がありました。ところが、いつもは雄弁なJUNさんの喉の調子が悪く、「それは違うだろう げほ、その考え げほげほげほ でいくと げほげほ」といった按配でリタイアとなり、十分に論議が深められなかったのは残念なことでした。願わくば、JUNさん、わくわくさん、次回チャットまで間がありますので、「投稿」において存分に議論を戦わせていただきたいと考えますが、いかがでしょう。

 なお、次回のチャット討論は、「<民主>と<愛国>」第1章「モラルの焦土」をテキストに、11月始めに開催したいと思います。日時はあらためてご連絡いたします。
以上、チャット討論報告でした。

2004年10月24日yomori55氏投稿より
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  by ponkenblog | 2004-12-17 23:34 | society & culture

「公共性について」戦後思想チャット報告(yomori55)

10月1日開催のチャット討論報告です。
参加者は、JUNさん、そにあさん、ジェーンさん、わくわくさん、いんくさん、ふとだまさん、よもりでした。

この日のテーマは「公共性について」ということで、冒頭よもりから以下のような発言を行いました。
この「戦後思想を考える部屋」において、いままでに幾度となく「公共性」ということが話題になってきたが、それは二つの切り口に大別される。ひとつは「個人」と「公」をめぐっての議論で、「愛国心教育」などにみられるような、私的領域への公権力の侵犯が話題となった。もうひとつは、「公共性」と「共同性」をめぐる議論で、そこでは利権構造や既得権益を守ろうとする「共同性」に対して、どのようにして自立した市民による「公共性」を建ててゆけるのか、ということが、主として丸山真男の立論を検討する形で話題となった。この議論を少し深めてみたい。

この提示に対し、そにあさんからは、「公共性」と「個人」を対置するのは英米系の思考であり、「公共性」と「共同性」を対置するのは、フランス・ドイツ系の思考である、という興味深い発言がありました。また、JUNさんからは、そもそもよもりがなぜそのような問題設定をするのか、モチーフがよくわからない、という疑義が出されました。討議の中ではゲマインシャフト、ゲゼルシャフトという懐かしい(?)言葉が飛び交い、自治体合併の問題点なども話題となりました。
ゲマインシャフト的な要素を色濃く残している鄙の自治体同士が、各々の共同性をいかにして残してゆくか、という駆け引きの枠組みの中で合併を進めても、新たな公共性を創り上げるという合併本来の趣旨からは離れてゆくばかりではないか。名称をめぐって破談になるなどという事態は、その実例ではないか(よもり)、という「鄙の住人」からのレポートもありました。

話題は、「政府と個人の間に中間団体を設けることの必要性」を説くそにあさんが、その一例として教職員の組合をあげたあたりから、学校における「日の丸・君が代」の取り扱いをめぐる議論にスライドしてゆきました。
わくわくさんが国旗、国歌に反対する教職員の姿勢に疑義を呈したのに対し、 「国家による国旗・国歌の強制は許しがたい。それに従わない教職員を処分する、というのは国家による思想統制に道を開くもの」とJUNさんが反論、ここから議論が熱を帯び始めました。

「日の丸・君が代に賛成するか反対するかは、個々の教師の自由だが、かりに反対であっても、子供には国旗・国歌に敬意を払うことを教えるべきではないか」(わくわくさん)
「それを国家が強制するということが問題だ。学校なり教師なりの判断にまかせればよい」(JUNさん)
「卒業式などの公的な儀式の場で、国旗・国歌に敬意を払うのは社会的なマナーである。人間は、一人では生きていけない社会的な存在なのだから、そこで互いが幸福に生きてゆくうえでの社会的なマナーを、小さいうちに学ぶのは大切なことである」(わくわくさん)
「国家(政府)は一切教育に係わるべきではない。君が代斉唱のときに起立する教師と起立しない教師が混在していても、一向にかまわないではないか」(そにあさん)
「そもそも、小学校の段階からなぜ儀式が必要なのか。入学式や卒業式などは廃止したほうがよい」(ジェーンさん)
「一人一人の人間がどうしたら幸福に生きてゆけるか。そこから考えるなら、社会の中にルールは必要だし、国旗・国歌もルールなのだから、公的な場ではそれを守るべきである」(わくわくさん)
などなど議論が百出し、「この話題はこのあたりで・・・」ということで、午前1時を回ったころに終了いたしました。

この議論に触発されて、よもりは記憶の底に沈んでいたある文章を思い出しました。
内田樹(うちだ・たつる)「寝ながら学べる構造主義」(なんちゅー題名だ)の中にある文章で、「国旗・国歌」議論とは直接の関係はありませんが、参考になればと考え、ブリーフケースにUPしておきました。

以上、やや乱暴にチャット討論の報告をまとめましたが、言葉が足りない面が多々あろうかと危惧しています。この部屋のもうひとつのコミュニケーション・ツールであります「投稿」において、報告の不備を補っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

2004年10月2日yomori55氏投稿より
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  by ponkenblog | 2004-10-18 04:56 | society & culture

「戦後思想」チャット報告2(yomori55)

こんにちは。よもりです。
8月20日(金)開催のチャット討論についてご報告いたします。

参加者はじゅんさん、そにあさん、りょうさん、せいぼさん、もりもりさん(お久し振り!)いんくさん、きかさん、ダンサーさん、ふとだまさん、よもりでした。

今回のテーマは「公共性について」でしたが、冒頭りょうさんより、加藤典洋の「私利私欲の上に公共性を築く」という論旨に対するコメントがありました。
りょうさんによれば、私利私欲の上に公共性を築くというのは、フランス革命のテーマであって、加藤は当たり前のことを言っているに過ぎない。公共性というのは、私利私欲を
達成するために求められるのである、ということでした。そして、そのためにも私利私欲を主張する各個人には「自己責任」が求められる、という考えです。
これに対し、そにあさんから「リバータリア(libertarian)の真骨頂ですね」と半畳(?)が入り、このやりとりが通奏低音となる形で議論が進みました。

りょうさんからは引き続き、神戸震災ボランティアに対する加藤典洋の一種冷ややかな視点(文章はブリーフケースにUPしています)について、「理解できない」との意見が提示されました。
これに対し、じゅんさん、よもりは、ボランティアの善意が国家意思に回収されることへの危惧という観点で加藤の文意を読み取るべき、と述べ、そにあさんからは「組織化されないボランティア」を否定する考えが示されました。
このあたりから、議論はりょうVSそにあのバトルの様相を呈し、書き込みをも巻き込んで、深い深い混迷へと沈んでいったのでした。

このバトルを再現することは、私の能力をはるかに超えていますが、面白いなあと感じたことがありますので、それを報告してみます。
議論の中で、そにあさんはりょうさんの論理の「形式」を衝いたように思えました。つまり「なにを語っているか」ではなく「どのように語っているか」、「論理がどのような構成をとっているのか」、を問題にしていたように思います。
対してりょうさんは、あくまで「語られたことの実質」が大事であるという姿勢を崩しません。
最後には業を煮やした(?)そにあさんから、「自衛隊のイラク派兵だってボランティアです」という発言が飛び出しました。これは、りょうさんの論理に傷口を開けようとした、そにあさんの「自爆テロ」とも見なされましたが、結果としては、残念ながら単なる自爆に終わり、夏の夜の底へと沈没していった感がありました(そにあさん、ごめん。反論してね)。

参加者のみなさんはどんな感想をお持ちでしょうか。
ぜひぜひ、投稿ください。
2004年8月23日yomori55氏の投稿より
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  by ponkenblog | 2004-09-04 21:24 | society & culture

第1回コラボレーション ご報告 (sonia氏文責)

第1回ぽんけん&戦後思想の部屋(コラボレーション)のご報告を、ジュンさんの依頼を受けソニアがいたします。

11月1日(土)、午後10時~午前1時まで、活発な討論がなされました。皆様、お疲れ様でした。

およそ、三部構成でお話が展開したと思います。①提出された資料批判 ②公共性と共同性論 ③総選挙と小泉政権 の順です。

まず、ソニアの提出した、たたき台としての資料(朝日新聞の記事)について、暴発さん、そんふしさんからご批判をいただきました。

 ○論旨が明確でなく難解である(暴発)

 ○戦前の価値を全否定するような戦後民主派知識人の衒学的態度には到底承服しかねる(そんふし)

そうしたご批判を受けて、各パラグラフごとの資料読解へと進みました。

 ○「疑いの精神を疑う」状況が、現代版「近代の超克」論とも言うべきポストモダン思想にも見て取れるのではないか(よもり)

 ○政治的「原理主義」とでも言うべきもの(自由主義やカント思想への回帰)が台頭しているのではないか(ソニア)

 ○ルペン派ナンバー2の詳細なご説明と、「いま押し出してくる気配のある」政治状況(右転回)への懸念の表明(ジュン)

 ○先進国での近代の抑圧/近代の超克と、途上国での伝統の抑圧/近代の完遂という、グローバルな温度差の存在の指摘(ジュン)

次に、資料の言及している、近代国民国家により担保された「主権」と「人権」のお話から、共同性と公共性へと論が進みました。

 ○古い公共性の回復を主張する小林・西尾・佐伯のグループは、「祖国のために死ぬ覚悟」を強調する(ソニア)

 ○いや「祖国のために殺す覚悟」とした方が、ごく僅かな可能性として、公共性のナローパスへの展望が開けるのではないか(よもり)

 ○丸山真男の言う市民社会という公共性構築を忘却し、一挙に国益へ飛びつく小林・西尾のグループのあり方への懸念(ジュン)

このジュンさんのご指摘から、日本の中間的共同体(部分社会)の問題へ話が及びました。

 ○丸山の活躍した時代から共同体の崩壊という現実が始まり、市民による公共性の構築が危急の課題となった(ジュン)

 ○日本の中間的共同体は、共同体の繁栄=個人の自己実現という幻想が機能しているうちは有効であった(ソニア)

 ○いや、共同性と公共性は不可分であり、共同性を基盤にして公共性が構築されるのではないか(よもり)

最後に、総選挙も近いこともあり、日本の政治状況に関するお話(苦言)で締めくくられました。

 ○政権交代の一点突破に絞り、政治哲学の論議を置き去りにした新民主党のあり方は「野合」そのものではないか(ソニア)

 ○本来は、社会民主的な勢力が丸山の理想とした哲学を担うべきだが、政治的「逆風」の中で思うにまかせない状況(ジュン)

えーと、またまた、いつもの三人のお話だけに「閉塞」してしまいました(笑)。この状況をよもりさんは、次のように表現されました。

 ○公共性と共同性の議論、つまり社会をいかに解釈しそれと関わるべきかという問題は、貧困というリアリティーの喪失によって、

  社会をどう味わい、どう楽しむかというミーイズム(市場原理)に席を譲り、1979年を境に転回したのではないか。

確かに、コアなお話で他の方々がなかなか参加しづらい面もあったかなと思います。次回は、もう少し議論の輪を広げたいと思います。

また、ジュンさん、よもりさんが、オープン部屋で緊張したというご感想にびっくりするとともに、温泉気分という表現に苦笑しました。

以上、ご報告でした。
2003年11月5日(水) 午後2時38分投稿 sonia rykeil_2001投稿より
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  by ponkenblog | 2004-08-21 22:36 | society & culture

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