「公共性について」戦後思想チャット報告(yomori55)

10月1日開催のチャット討論報告です。
参加者は、JUNさん、そにあさん、ジェーンさん、わくわくさん、いんくさん、ふとだまさん、よもりでした。

この日のテーマは「公共性について」ということで、冒頭よもりから以下のような発言を行いました。
この「戦後思想を考える部屋」において、いままでに幾度となく「公共性」ということが話題になってきたが、それは二つの切り口に大別される。ひとつは「個人」と「公」をめぐっての議論で、「愛国心教育」などにみられるような、私的領域への公権力の侵犯が話題となった。もうひとつは、「公共性」と「共同性」をめぐる議論で、そこでは利権構造や既得権益を守ろうとする「共同性」に対して、どのようにして自立した市民による「公共性」を建ててゆけるのか、ということが、主として丸山真男の立論を検討する形で話題となった。この議論を少し深めてみたい。

この提示に対し、そにあさんからは、「公共性」と「個人」を対置するのは英米系の思考であり、「公共性」と「共同性」を対置するのは、フランス・ドイツ系の思考である、という興味深い発言がありました。また、JUNさんからは、そもそもよもりがなぜそのような問題設定をするのか、モチーフがよくわからない、という疑義が出されました。討議の中ではゲマインシャフト、ゲゼルシャフトという懐かしい(?)言葉が飛び交い、自治体合併の問題点なども話題となりました。
ゲマインシャフト的な要素を色濃く残している鄙の自治体同士が、各々の共同性をいかにして残してゆくか、という駆け引きの枠組みの中で合併を進めても、新たな公共性を創り上げるという合併本来の趣旨からは離れてゆくばかりではないか。名称をめぐって破談になるなどという事態は、その実例ではないか(よもり)、という「鄙の住人」からのレポートもありました。

話題は、「政府と個人の間に中間団体を設けることの必要性」を説くそにあさんが、その一例として教職員の組合をあげたあたりから、学校における「日の丸・君が代」の取り扱いをめぐる議論にスライドしてゆきました。
わくわくさんが国旗、国歌に反対する教職員の姿勢に疑義を呈したのに対し、 「国家による国旗・国歌の強制は許しがたい。それに従わない教職員を処分する、というのは国家による思想統制に道を開くもの」とJUNさんが反論、ここから議論が熱を帯び始めました。

「日の丸・君が代に賛成するか反対するかは、個々の教師の自由だが、かりに反対であっても、子供には国旗・国歌に敬意を払うことを教えるべきではないか」(わくわくさん)
「それを国家が強制するということが問題だ。学校なり教師なりの判断にまかせればよい」(JUNさん)
「卒業式などの公的な儀式の場で、国旗・国歌に敬意を払うのは社会的なマナーである。人間は、一人では生きていけない社会的な存在なのだから、そこで互いが幸福に生きてゆくうえでの社会的なマナーを、小さいうちに学ぶのは大切なことである」(わくわくさん)
「国家(政府)は一切教育に係わるべきではない。君が代斉唱のときに起立する教師と起立しない教師が混在していても、一向にかまわないではないか」(そにあさん)
「そもそも、小学校の段階からなぜ儀式が必要なのか。入学式や卒業式などは廃止したほうがよい」(ジェーンさん)
「一人一人の人間がどうしたら幸福に生きてゆけるか。そこから考えるなら、社会の中にルールは必要だし、国旗・国歌もルールなのだから、公的な場ではそれを守るべきである」(わくわくさん)
などなど議論が百出し、「この話題はこのあたりで・・・」ということで、午前1時を回ったころに終了いたしました。

この議論に触発されて、よもりは記憶の底に沈んでいたある文章を思い出しました。
内田樹(うちだ・たつる)「寝ながら学べる構造主義」(なんちゅー題名だ)の中にある文章で、「国旗・国歌」議論とは直接の関係はありませんが、参考になればと考え、ブリーフケースにUPしておきました。

以上、やや乱暴にチャット討論の報告をまとめましたが、言葉が足りない面が多々あろうかと危惧しています。この部屋のもうひとつのコミュニケーション・ツールであります「投稿」において、報告の不備を補っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

2004年10月2日yomori55氏投稿より
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  by ponkenblog | 2004-10-18 04:56 | society & culture

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